2015年10月30日

恐るべし!「虎姫一座」

10/25(日)、浅草にレヴューを見に行った。
そのタイトルを「これが浅草レヴュー『虎姫一座』だ! 60年代を突っ走れ!」という。
イヤー、驚いた! 実に質の高いエンターテインメントに仕上がっている。端的に表現すると
「来た!」「観た!」「震えた!」
僕がこのshowの存在を知ったのは今年6月の中頃、浅草六区の「ゆめまち劇場」にWAHAHA本舗の主宰者喰始演出の芝居を見に行った時だ。
終演後、「僕は今日、浅草に来てる」と、劇場内の写真をアップしたら、「その写真に後ろ姿で写り混んじゃったのは僕です」とコメントしてくれた人がいた。その方を佐野さんという。
「なんだ、声かけてくれれば良かったのに」と返信したら、
「僕、今はもうそこからすぐの劇場にいます。『虎姫一座』のshowなんですが、最後にかぜさんの歌が歌われてます。いつか見てやってください。とってもいいグループです」
「虎姫一座? なんだそりゃ」というのが第一印象だったが、僕はそれから間もなく、思いもよらぬ場所で、彼らの存在を再認識することになった。
なんと、それは、新しいリハビリに取り組むために移った高坂のリハビリ施設でのことだ。
完全に失われてしまった筋力を取り戻すため、マシンを使うことになったのだ。
リハビリには十分な休憩と水分補給が必要なので必ず途中でお茶の時間がある。
その日、僕が親しくさせてもらっている三枝さんがこんなことを言い始めた。
「この間さあ、浅草でいいものを観たんだよ」
「良いものって?」
僕が相づちを打つ。
僕はこの病気になってから、食堂とかお茶の時間に、誰かが話し始めた話題をみんなの話題に広げる癖がついた。そうしないと高齢者たちはただ、黙ったままになってしまう。
なので僕はいつの間にか「班長サン」という認知をされてしまうらしく、お婆ちゃんから「オシッコ行きたいんだけど」とか「コーヒーの袋が破けないんだけど」とか雑用申し受け係みたいになっている。
「あの〜、山田さんはまだ見てねえかい。若い子たちが古い歌を歌って踊るンだけどよ」
「WAHAHA本舗?」
「ウウン、そんな有名な名前じゃなくて、まだ無名なんだけどこれが馬鹿に良いんだい」人の話はいい加減に聞いておくものじゃないね。「浅草」「無名」で僕は佐野さんの教えてくれたグループ名に行き着いたのだ。
「もしかして、虎姫一座って言います?」
「ああ、そ、それだよ、虎姫一座。エ、山田さん、何で知ってるん? もう有名なん?」
「ええ、ネットではだいぶ評判ですねえ」
「ああ、そうなんかい。それじゃあ、テレビにも出てくれるかねえ。俺ァ、楽しみに待ってンだよ」
もう、70代後半の三枝さんをこんなに喜ばせた「虎姫一座」ってどんな演し物をやってる、どんなグループなんだろう?
僕の中では期待ばかりが大きく膨らんだ。
出会いというのはそれが必然ならば本人の知らぬところで着々と準備されて行くものなのかもしれない。
なんと、わずか1ヶ月の間に三度「虎姫一座」の名を聞くことになった。
7/11(土)、僕は久しぶりに人前に立つことになった。
「EPO歌手生活35周年記念コンサート」
面映ゆいことだがゲストである。EPOちゃんの最初の歌声は僕の番組のレコードに収まっている。
ただ、その縁だけで僕とEPOちゃんは長〜い友達だった。
このコンサートに出て以来、僕のFB友達は数十人増となるのだが、その中に「虎姫一座」応援団長を自認する田村さんがいた。
田村さんは「タクシーを手配します。是非、見て欲しいんです」とメッセージを下さった。
なんと、田村さんは「虎姫一座」と出会って、家族ごと浅草に転居してしまった、という究極の追っかけなのだった。
何で「虎姫一座」というグループは、こんなにも大人たちを夢中にさせているんだろう。
ともかく見に行かねば。
そう思っている内に、週2日のリハビリに歯の治療、隔週のラジオ、と病人としてはそこそこ忙しい月日が流れ、気づけば10月も後半。いくら最初からロングランと謳っていてもこのままじゃ見ず終いになってしまう。
僕は覚悟を決めた。
浅草六区の全盛時を僕は知っている。
昭和32年4月〜38年3月までの6年間を浅草からは川向こうとなる墨田区は向島で過ごした。
だから僕の知っている浅草六区は、レビュー全盛時の六区でなく映画全盛時の昭和30年代である。
特にゴールデンウィークと正月休みの映画街はほぼ電車のラッシュ時並み。歩くのが困難なほどの賑わいだった。
勿論、浅草の衰退も見ている。
特にテレビドキュメントの構成を始めてからは、三社祭、合羽橋道具街、行商等のテーマで歩いたし、一番古い業界友達の喰ちゃんがWAHAHAのイベントで浅草花やしきを使うようになってからは頻繁に訪れるようになった。
しかし、4,5年前までの六区は往時を知る身にはあまりに切ない衰退ぶりだったというしかない。
あんな興業街のどんな小屋で、一体、どんなshowを見せているというのだ?
僕はある種の怖いもの見たさの感情を抱きつつ、雑貨屋「ドン・キホーテ」ビルの「アミューズカフェシアター」のある階に降り立った。
喰ちゃん演出の際のゆめまちシアターでも感じたが劇場は小綺麗で洒落ている。
六区という土地柄にはどこかそぐわない感じもするのだが、恐らくは僕が昔の六区を知っているせいで、小綺麗さを受け入れられずにいるようにも思えた。
現在、浅草六区に店を構えるには劇場施設を併設すること、というのが決まりらしく、今後、こうした劇場はどんどん増える。
それに伴い、小綺麗で小洒落た感覚が新しい浅草のイメージになっていくのだろうから、古い知識は必要ない、多分ね。
劇場受付で白と黒の制服の少女が「虎姫一座の誰それです。今日は受付の担当です」というような挨拶をしてくれた。
清潔感が印象的だった。
劇場内はまさしくカフェシアターのしつらえで客席はおよそ70人を収容。客席中央には厨房が張り出していて、そこでは調理人とウエイター、ウエイトレスたちが白と黒のスタイリッシュな制服姿で立ち働いており、ウエイターの少女はお茶を運んできてくれた折りに「虎姫一座の誰それです」ととても良い笑顔で挨拶してくれる。
そう、彼ら彼女らはshowの開演と同時に早着替えで演者に変身するのだった。
午後1時。
浅草レヴュー「虎姫一座」の『60年代を突っ走れ!』は『クール』から始まった。
ご存知『ウエストサイド物語』の名曲で、この映画で人生の階段を幸せに踏み外した僕は、早くも期待に胸がときめいた。
ステージの壁面にナビゲーターの小倉久寛さんが現れて『ウエストサイド物語』が1961年上映であること。日本にもミュージカル熱が高まり、ハナ肇とクレイジー・キャッツ、『シャボン玉ホリデー』『ザ・ヒットパレード』『夢で逢いましょう』といった後世に名を残す名番組が生まれたことなどを手際よく紹介する。
惜しむらくは『ウエストサイド物語』を『ウエストサイド・ストーリー』と読んでいること。のちに、誰も文句を言わなくなったが、上映時は『ウエストサイド・モノガタリ』というのが正式タイトルだった。
余談だがタイトル案で最有力だったのは『ニューヨーク愚連隊』。
歴史に残るヒット作にはならなかったかもね。

さあ、『ウエストサイド物語』の『クール』で始まった虎姫一座のステージは小倉久寛さんのナビゲートで
青島幸男作詞、萩原哲晶作曲で知られる
「クレイジー・キャッツ・ヒットメドレー」へ。
●スーダラ節
●ホンダラ行進曲
●ハイそれまでよ
他、お馴染みクレイジーのヒットナンバーが続く。
しかし、虎姫一座、植木等さんが奮闘した「無責任時代」なんか知るよしもないはず。
ところが彼ら、その世界を必死の取り組みで体現して見せる。
コント的所作に硬さは残るものの客席自体もまだ十分に暖まっていないのでウォーミングアップとしてはこれで良いのじゃないかな。
最初から植木さんを達者に演っちゃったら悪達者な若者たちにしか見えない。固さに初々しさを感じさせるこの出だしにむしろ程の良さがある。
しかし、次の『ザ・ヒットパレード』の景で虎姫一座は彼らの魅力を早くも全開させる。
●恋の片道切符
●そよ風に乗って
●スタンド・バイ・ミー
●夢見るシャンソン人形
●カレンダー・ガール
ああ、曲名を全部書いてしまいたいと思うほどキュートなナンバーが続く。
特にマジョリー・ノエルの『そよ風に乗って』。これ、何故かベストヒット盤に収録されることが少なく、掛けようと思うと局のレコード室から誰かが借り出し中。一枚しかないレコードをめぐって局中がカリカリした人気曲なのよね。
溌剌と歌い踊る清涼感に選曲の良さが加味されてもはや涙モノのステージが展開してる。
60年代どストライクの僕にはホントにたまらん♪
ステージはここで突然、「和モダン」の世界に突入する。
甚句を歌い始める娘さん。
心地よいコブシに男二人が打ち鳴らす和太鼓が加わる。
ああ、そうだそうだ、男の子もいたんだよな。
これまで彼らも女の子たちと歌い踊っていて、なんの違和感も持たせていなかったのだが、この景で突如、その存在を顕かにする。
彼ら二人の存在がこの一座にピリッと背筋が伸びている感じを与えていたことがわかる。
聞けば彼らは「鼓童」の出身。
上手いはずだ。
甚句の女の子は民謡出身で、何故か民謡の出身者はどのジャンルの歌にも死角がない。たとえば三橋美智也、細川たかし、金沢明子、松村和子…。
そして、気づくのだが、一座の多くの少女たちは一人一人が得意ジャンルを持っているようだ。
アクロバット、新体操、バレエ、ヒップホップ系ストリート・ダンス…。
彼ら彼女らの特技が随所に活かされ、巷に氾濫する数多の少女グループと一線を画していることが判ってくる。
次に小倉久寛さんは『日曜洋画劇場』へと誘う。
淀川長治さんが大人気だった60年代。
そう、淀川さんが有名にした最初のスターは『ララミー牧場』のジェスことロバート・フラーだった。
大好きだった。写真が出てきただけで泣きそうだ。
小倉さんは60年代の洋画ヒットはアメリカよりヨーロッパ作品が多かったことを伝え、ステージは「映画音楽」へ。
●007 ロシアより愛を込めて
●日曜はダメよ
●太陽はひとりぼっち
●栄光への脱出
「007」2作目は『危機一発』のタイトルで封切られたが、苦心のタイトルも『危機一髪』の誤植じゃねえのか、と言われ、主題歌タイトルとして超有名だった『ロシアより愛を込めて』に変わった。元々、原題はそれなのだから工夫しただけ損した結果になったけど、僕は『危機一発』のシャレ方も捨てがたいと思っている。
凛々しく、愛らしく、アンニュイに、気高く歌われた主題歌集もアッと言う間。
『刑事』から「死ぬほど愛して」『太陽がいっぱい』の主題曲に無理やり詞をハメ込んだ木田ヨシコver.『ブーベの恋人』の主題歌(多分これも日本だけ)なんかに入れ換えても面白そう、などと、彼らの実力の程が判ってきたので見る側にも余裕が出て来た。
そして、このステージの白眉とも言える60年代を代表する音楽バラエティ番組『シャボン玉ホリデー』vs.『夢で逢いましょう』。
それは詰まるところ、宮川泰 vs. 中村八大という昭和を代表する人気作曲家対決でもある。
●「夢で逢いましょう」のテーマソング
●「シャボン玉ホリデー」のテーマソング
●ウエディングドレス
●娘よ
●帰ろかな
●あの娘の名前は何てんかな? 
●遠くへ行きたい
●幼なじみ
などなど永六輔作詞 中村八大作曲で知られる『夢逢い』の名曲オンパレード。
『上を向いて歩こう』『こんにちは赤ちゃん』を生んだことでも知られている。
『あの娘の名前は…』は九ちゃんが呼び掛ける名前に、当時のプロダクション関係者からロカビリー歌手、仲間のポップス歌手たちが並ぶお遊びソング。
お遊びなのにちゃんと作品として成立してるのが味噌。
一座はこれらを楽しそうに歌いきった。
益田喜頓さんの『娘よ』を年齢の違和感ナシに聞かせたのも立派。
ところで、永さんは『スキヤキ』とタイトルされた楽曲からは一切の印税受け取りを拒否してらっしゃる。出来るだけ『上を向いて歩こう』と言ってあげてね。
対する宮川泰作品は『シャボン玉ホリデー』の主役である、世界に誇れる日本のデュオ、ザ・ピーナッツの代表作でもある。
●情熱の花(これは外国曲だけど)
●恋のフーガ
●恋のバカンス
●ローマの雨
『ローマの雨』はピーナッツの美しいハーモニーを最大限に再現して聞かせた曲で、一番きれいにハモる部分では一座の声がまさしくピーナッツに重なる。
感心した。
ピーナッツは真似て真似られるコーラスではないが、美しいコーラスを追い求めるとピーナッツになってしまう、ということなんだと思う。
現代の歌は言葉数が多すぎるのと説明のしすぎで歌い手の表現力に頼る部分が少ないが、昭和の歌は歌手の力と聞き手の想像力に委ねる部分をわざわざ残している。
言葉に頼りすぎると聞き手を楽にしすぎるので『ローマの雨』の美しい表現もハーモニーも要らないものになってしまう。
虎姫一座はその表現力を手にする機会を得た幸運なグループだ。
これからもっともっと成長するはずだ。
さて、その虎姫一座が最後に歌ってくれるのがかぜ耕士作詞、中村八大作曲の『涙をこえて』だ。
贔屓の引き倒しになりそうで怖いのだが、これが絶品なのだな。
1970年に始まったNHK-TV『ステージ101』の第1号オリジナルソングだが発表は1969年11月で日本のソフトロックのハシリ、とも形容されている。
オリジナル・シンガーはシング・アウトという7人組だが『ステージ101』の出演者全員45人(総称「ヤング101」)が有名にしてくれた。
45人の番組第1期メンバーは何人かを除いて既に期待の新人としてレコードデビューしていたが、何故かセールスに結び付かなかった。
音楽監督の八大さんと演出の末盛憲彦さんは不運だが上手さ折り紙つきの新人を次々にオーデションして第一期メンバーを決めた。
彼らの歌う『涙をこえて』に実在感が伴ったのにはそんな理由もある、と僕は思っている。

では、虎姫一座は?
イヤー、はっきり言って驚いたのだ。
ギランバレー症候群という訳のわからない病気でリハビリ中の(というか、リハビリ以外に治す術がない、という病気だ。リハビリを諦めたら終わりなのだ)の僕が、なんと、自分の歌で励まされるとは、ネ。
こんな幸せが僕の人生にまだ残されていたとは!
だから、僕は彼らの求めに応じて立ち上がり、一座のみんなに、そしてお客さんたちに頭を下げた。

彼らは何故、『涙をこえて』をあんなに上手く歌ってくれたんだろう。
パンフを読んで解った。
彼らは若いけど結構苦労人が多いのだ。
「ヤング101」との共通点があったことになる。歌にとっては幸いなことに上手く歌ってくれる素地を虎姫一座の皆さんが持っていたことになる。
さらに、彼らが大人を捉えているのにも理由があった。
虎姫一座は元「アミューズ」社長(現会長)の大里洋吉さんとプロデューサーの森弘明さんが手塩にかけて育てたグループだ。
お二人とも『夢で逢いましょう』の演出家末盛憲彦さんに憧れてこの世界に入った。
僕は同じ番組の書き手永六輔さんに憧れて永さんが集めた創作集団に入った。
大里さんは社長の座を離れた時、世界のエンターテインメントに触れる旅を敢行した。
多くの国でシニア世代はエンターテインメントを享受していた。
しかるに日本は?
日本のシニア世代に向けた質の高いエンターテインメントを提供できないものか?
そんな構想の中で集められ、育てられたのが虎姫一座だった。
彼らは既に5年前、2010年7月に結成され『復活!昭和歌謡 エノケン・笠置ヒットソング・レヴュー』を上演。
1年毎に新作を上演して1年前浅草に定着。
昨日今日出て来た連中ではなかった。
それにしては、彼らの持っている清潔感、舞台に漂う清涼感は何?
僕は震えた。心底嬉しかった。
作詞家である自分を誇らしく思った。
自分の歌に励まされるなんて間抜けの極みだけれど、こんな経験した作詞家もそんなにはいないだろうね♪
なんかとても満たされた気分で、僕は銀座TACTに向かった。
僕の番組の人気アマチュアグループとして活躍したハックルベリー・フィンのマーク松村くんが亡くなって1年。
相棒の丈二くんによる追悼コンサートとも言えたが、これはまた新生ハックルベリー・フィンの出立コンサートでもある。
何人もの懐かしい顔に出会って、こっちでも励まされた一日でした。
ちなみに僕は今日リハビリで三枝さんにお会いしたのだけど虎姫一座を僕も見て来たよ、としか話しませんでした。もちろん、それだけでしばらく話題は持ったんだけど、僕の歌を歌ってくれてる、って言っちゃうとリハビリ所で余計な興味を持たれるものね。
単なる芸能通の山田さんでいいや。

写真は「虎姫一座」の看板と銀座TACTのじょうじさんコンサートに集まったタムタム仲間。

虎姫一座.jpgTACT.jpg
posted by レドンドの風 at 03:03| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
虎姫一座を愛してやまないファンの一人です。いつも「涙をこえて」大合唱させていただいております。「涙をこえて」を虎姫一座の公演で初めて知りました。ほんとうに気持ちが晴れ晴れする素晴らしい歌ですね。そして、素敵な記事を読ませていただき、大変感動しました。かぜ耕士さんが作られた詩が、虎姫一座によって歌い継がれ、そしてかぜ耕士さん自身を励ましている。ぐるぐると渦巻くつむじ風のように。「涙をこえて」と虎姫一座の素晴らしさをもっともっと多くの人に知ってもらいたいと切に願っております。ご療養中とのこと、寒い季節になりますが、お体に御自愛くださいませ。ありがとうございました。
Posted by POPO at 2015年10月30日 22:00
popoさん、コメントありがとうございます。
このブログも病気で閉じたきり、2年ぶりに再開ですが、そのきっかけが虎姫一座だったのも何かの縁かもしれません。
僕ももう少しがんばってみます。
Posted by 店主・かぜ at 2015年10月31日 19:33
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